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恥ずかしいことだけど、この話題を避けるわけにはいかないよな。
この前、東大入試の成績開示が行われたことを話した。その記事を書いたあと恐る恐る中を見てみた。正直、見ないでそのままゴミ箱に突っ込みたかった。自分のリアルな成績を見るのは怖かったからだ。ヘタレだ。
見てみた。ショボーン(´・ω・`)って感じになった。
そうそう、前回の成績開示についてはこのブログの最初のほうの記事に書いた。詳しくはこちらを見てくれ。
それでは今年の成績の話に移る。
去年とほぼ同じ水準の成績だったのは、日本史・世界史・国語だった。点数はほとんど変わらない。伸びてもいないし落ちてもいない。現状維持。
逆に去年より落ちたのは英語。成績を載せるのが恥ずかしいくらい酷い出来。スイマセン。何点かは言いたくないです。
数学は上がった。ただし、去年は数学の試験中に頭が真っ白になってしまい出来ずあんなに酷い点数だったから、点数こそは上がっても、実力がついたことになるわけではない。
合計点数。これだけは言おう。二次試験の点数は236/440点。センターの点数と合計すると330/550点だった。点数で見ると去年より下がった。
ちなみに合格最高点は435/550点、合格最低点は351/550点、合格平均点は376/550点だった。合格まで21点足りなかった。おそらく英語がマトモに出来、数学あたりでもっと点が稼げればよかったんだろう。
最低点が去年よりは下がっているから、今年のテストは難しくなったのかもしれない。受験生のレベルの変化も考えると実際はどうなのだろうか・・・
色々な要素を総合して考えてみても、俺の実力は浪人して上がったわけでもなく、現状維持が精一杯だということが分かった。(ここ重要)
一年間の浪人生活は成績を伸ばすのに対して役に立たなかったんじゃないのか・・・
これから浪人される方や現役生だけど早くも浪人してもいいと思っている方は注意してください。浪人しても成績が上がらないということは十分ありうることです。
俺が現役のころは「浪人して頑張れば東大受かるだろ」と甘いことを考えていた。しかし、現実は違った。宅浪生活を始めた当初からやる気はほぼ0で最低限の勉強すらサボる。成績は現役時代のわずかな蓄えを食いつぶす形で徐々に下がっていき(8月の駿台の東大模試ではB判定だったが、11月にはC判定に落ちた)、焦るわりには勉強しない。いつの間にか東大に受かることよりも浪人脱出ばかり考えていた。
どうしてこうなってしまったのだろうか。これからじっくりと分析し、ブログに書いていこうと思う。
(注意)
このブログに書かれていることの大半は管理人の経験に基いたものであり、必ずしも普遍的な真理ではありません。あくまでも、一つの特殊なケースとして受け取って下さい。もちろん、批判や反論、質問は受け付けます。コメント欄に書いていただければ出来る範囲で答えます。

今年の東大の英語、まだ1(A) 1(B)しか見ていませんが 内容が理系でしたね。
SFと科学の研究について と 小惑星からの資源の運搬と利用 理科好きにはvery interesting で構文・文法が怪しくても言ってることは推測可能です。ここら辺が受験英語の限界を明確に示しているところで、外国人とface to faceのコミュニケイションをとるにはまったく必要ないところ。出来が悪くてもガッカリするなかれ。
個人的には、高校の時点で文系、理系と別にクラス編成するのは反対です。
私の高校では、三年のときに、微分積分 確率・統計 しっかりコース と ゆるめコース に分かれるだけでした。(当時)
社会は一年で 地理 現代社会 二年で 政治・経済 世界史 三年で 日本史 倫理 文系理系関係なく同じ授業でした。
何年か前の 世界史未履修問題には唖然!
そんなセコイ事していい大学受かっても意味ねージャン。
もっとも、会社もコンプライアンスなんていっていたけど、小学生にも分かるように言うと、会社は決められたルールをきちんと守って経済活動しましょう、ってことでしょ。
社会人が大人であることに異論はありませんが、わが社はコンプライアンスにのっとり・・・なんて社長が謝罪していた点では、小学生にも劣ります。
これには反論があるでしょうが、どんなレトリックや詭弁がとびだすやら。国語力の悪用です。
科学の悪用もいけませんが、国語力の悪用はもっと危険です。
話がそれすぎたので、戻ります。
東大は、文系偏り人間も 理系偏り人間 も要らないと今年はっきり宣言したのだと思います。
来年当たりは、英語で資本主義についてor哲学について の偏り英文が出て理系偏り人間 狙い撃ちかもしれませんね。
田舎の公立校から東大 京大 は初めから狙わないほうがいい希ガス。地元の大学目指して、学力に余裕があれば、部活頑張るなり、エレクトロニクスに興味のある人は通販で部品集めて OPアンプとかPIC等のマイコンなどいじってみたり、本好きは小説・新書をいろいろ読んでみたり、料理に凝ってみたり、好きなことに時間をまわしたほうが、受験勉強に追われるより健全な希ガス。
もちろん、彼女が出来て 合意の上で sex三昧もありかもしれません。ただ、望まない妊娠や 性感染症には注意するべきですね。
世間体のいい大学に行くばかりが能じゃないよ。
確かに学閥はあるのでしょうが、現在の政治と経済の状況じゃ、その学閥が諸悪の根源なんじゃないのかな。 そんな希ガス。
今のような受験制度を続けていたら、一流大学が既得権益大学に身を落とすだけです。もうその兆候が出ているような希ガス。 以上
英文が理系の題材だったのでとてもやりにくかったことは良く覚えています。俺みたいな文系偏り人間は爆死。東大にとって必要のない人間ということらしいです(笑)
昔の高校は文理の相違が今よりも少ないのは興味深いです。今よりも授業時間が確保されていたから出来たのでしょうか。考えたら昔のほうが幅広い教養が重要視されているのではないでしょうか。最近では教養主義の没落だとかいわれていますね。自分の言える話じゃありませんが。
「田舎の公立校から東大京大は初めから狙わないほうがいい」ということには悔しいながら賛成に近くなってきました。高校生は高校生らしくしたほうがいいんじゃないのかなって。そんなこといっても意味ないですが。そんなんでも「世間体のいい大学」を目指してしまった俺ですし(笑)
教養のウィキペディアの解説は、辞書的でした。私は、田舎に住んでいる限りにおいては、普段接している方々より、知識は有る方なので、井の中のカワズ状態ですね。でも、大学出ではなくとも興味深い考えの持ち主はいくらかいらっしゃいます。私から観れば、教養人であり、考えを実際に行動に移す凄さがあります。私は、自分で興味がある本は読む。TV・ラジオのnews ドキュメンタリー番組 教養系番組(教養って何だろうと考えている中で教養と言う言葉を定義なしで使ってしまう自己再帰性から逃れられない。ソフトウェア プログラミング ではバックトラック等自己再帰アルゴリズムは実際に存在します。逐次的に命令を処理する中で関数(C言語) プロシージャ(手続き)(パスカル:プログラム言語の一種)を呼び出し、その関数あるいはプロシージャのなかでまた同じ関数あるいはプロシージャを記述する。)クイズ番組を好んで観ます。そして色々、得た知識を私なりに関連させてみる。田んぼや畑で土をいじる。散歩するなど身体を動かす。そうすると、体も、知識を求める頭も、今度はあれやってみようという意欲も湧いてきます。子どものころから、宇宙とか星座・昆虫が好きだったので明らかに知識が理系に偏っていたのですが、オヤジになると理系なことも好きなんだけど、社会問題や人間って何だろうという問題意識を持つようになりました。でも実際にアクションを起こす行動力は無いです。ただの頭でっかちってヤツです。
で、個人的には、教養とはヨーロッパを起源に持つ上流階級の社交上のたしなみ・常識なのだと思います。(ここら辺が独断)
それを、現代の日本に無理やり当てはめると、華道をたしなむ 茶道をたしなむ 歌舞伎を鑑賞する。オペラを鑑賞する。洒落た、喫茶店やレストランで 上品で ウイット エスプリに富んだ会話を楽しむ。
なんだ?女性の話?と思うでしょうが、まさに女性のためにあるものだと思います。
上流クラスに嫁ぐ女性が、嫁いだ先の上流クラスの社交で恥をかかないために必要なたしなみ・常識だと考えます。(ゆえに、age39 には無縁のもの)
あと、有力な説として 人間性や品格を伴った奥深くかつ広範な建設的な知識 あるいは それを充たす人間存在そのもの かもしれません。
昔は、教養主義が今より活気があった あるいは 現在は教養主義が没落した というのは 私には いまでいう インテリ志向の減少 インテリの権威の減少 と映ります。
あの人は帝国大卒でインテリだから、有り難く ご意見を頂戴しよう という気風が よかれ 悪しかれ あったのです。
現在では、所謂インテリがTVにでても さんまさん に面白おかしく いじられて 笑いに落ち着いてしまいます。 ですから、TV では
お笑い >> インテリ
インテリでは退屈だし儲からないよ(実用主義・プラグマティズム)
って事だと思います。
あるいは
教養 = 奥深く広範な知識 = 詰め込み教育の産物 ⇒ 脱詰め込み教育へ = ゆとり教育 ⇒ ゆとり教育の失敗 ⇒ 日本における教育の在り方の混乱 = 教養?ナンダそれ?うまいのか?(未来少年コナンのジムシー風)
人間性と知識のほうの教養ってのは昔からまぼろし or 知識版 坂の上の雲 なんじゃないかな
(独断で締めくくり)
教養教養って言うけれど(いや、最近はあまり聞かれないか)、そんなことなんの役に立つのか。文学や哲学をいくら学んでも教授にでもならない限りお金は一銭も増えない。
というのが「普通」の感覚なんではないでしょうか。
そもそも、「教養」というもの自体自己満足の産物かもしれない(偏見)おそらく、どこかの誰かの自己満足の集まりがそう呼ばれて出来た。スタンダードな教養はそれが形成された場所、時代で最もスタンダードな自己満足だったのだ。(大いに偏見)
だからといって教養を否定してしまうのはナンセンス。
自分が思うに人間にとって最も重要なもの、それは自己満足だと思う。オナニズムだ。(勘)人間社会を動かす原理であり、人をして人たらしむもの。
だから、教養を自己満足といって否定するのではない。自己満足といって肯定しなければならない。
と思い付きを書き散らしてみる今日この頃。
幻ではなく、それを目指して多くの人が衝き動かされ 人である以上それと無関係ではいられない。
という理解でいいのかな?(国語の試験を受けるようななんとも緊張する感じ)
オナニーでも大勢が、当たり前のように公然と目指すもの あるいは 生きている限り集団において影響を受けているので否定するどころか 肯定しなければならない必然性を持つ。ってことか。
私の考えは、上流社会に限定している(あるいはそもそもそんなもの実体がなかった)が、君の考えは集団でスタンダードになる自己満足。
違いはあっても、金にならないと役立たずという <「普通」の感覚 >はそうだと同意します。
まあ、君に遊んでもらえるのも今の内ということは確かです。これからどんどんたくましくなっていくんだろうなあ。
